紙屋研究所「宮本顕治君のこと」

 拙ブログでたびたび取り上げる紙屋研究所の話。今回は2007年に書かれた「宮本顕治君のこと」をフィーチャーする。該当記事はこちら。
 冒頭こそおどけた調子で書かれているが、当時亡くなって間もない宮本顕治氏への追悼が全編に貫かれている。何しろ紙屋高雪氏は、文章の締めくくりにおいて宮本をレーニンに比肩しうる人物とまで激賞しているのだ。日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」でも大々的に宮本の追悼記事が特集されたが、そこまでの評価は書いていなかったと思う。

 紙屋氏が記事で言及しているが、宮本の生前の功績の一つにはレッド・パージを経て瀕死の状態にあった日本共産党を「ソ連や中国に依存しない自主独立路線」や「赤旗戦略」などの大胆な方針を掲げてよみがえらせたことがある。考え直してみるとすごいことだな。現在の日本の政党なんて(世界でもかもしれんが)自民党、公明党、そして共産党以外は数年程度で路線に行き詰まれば党名を変えるだの、他党と合体するだのしてしまうものな。
 時代が違うとはいえ、そんな小細工をせずに20年程度で革新自治体が全体の4割に達するほど共産党の影響力を押し上げた親分がほかならぬ宮本顕治という。そら春日一幸やハマコーが国会の場で「宮本顕治が人を殺した」てデマを蒸し返したくもなりますわね。

 私が共産党の機関紙「赤旗」(現在は「しんぶん赤旗」)を購読しだした頃、宮本顕治は議長職にあり、毎年正月には「赤旗」紙面でロングインタビューが載っていた。忘れがたいのは、ある年のインタビューで彼が宮本百合子に言及したこと。既に宮本顕治は大森寿恵子と再婚して久しかったが、百合子との思い出を聞かれて「彼女は本当に原則的で…(笑い)」というくだりが書かれていた。私はそれを友人に伝えると、その友人は「その年でノロケかよ!」と笑っていた。

 宮本顕治が亡くなって12年になる。いわゆる13回忌か。紙屋氏のように本人に会ったことなどないが、彼の功績は折に触れて語れるようにはなりたいと思いながら生きている次第だ。まあ市区町村議選の後半戦というタイミングで言わせてもらうけど。

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