ツイートバズった記念・とりあえず天野喜孝は手塚治虫の爪の垢を煎じて飲め
どうも。何やら私のツイートがバズったようでw 「いいね」の件数が4ケタの1000件を超え、約1200件に上ったみたいです。もちろん、twitterをやりだしてから初めての経験ですね。
それを記念してというのもなんですが、例の「#自民党2019」のキャンペーンに関連したネタを。世間で怒涛のツッコミを受けた安倍晋三首相の侍ルックの肖像画。あれを描いたのはゲーム「ファイナルファンタジー」のデザインを担当する天野喜孝氏ということです。
天野氏は1952年生まれでタツノコプロのアニメーター出身。自民党公式サイトにあるインタビューも一読しましたが、まあ読んでの感想は「アンタ、手塚治虫の爪の垢を煎じて飲めよ」ですわね。
手塚は生前、日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」で連載漫画を持ったことがありました。その原稿受け取りを担当した記者が、後年同紙のコラム「潮流」で思い出を語っています。とある共産党員のブログに全文が載っているので、拝借します。
●「手塚治虫死去」 1989年2月10日
漫画界の第一人者手塚治虫さんがなくなりました。心やさしく、正義感の強い人でした。手塚さんが描く作品の主人公がそうであったように。「鉄腕アトム」のアトム、「ジャングル大帝」のレオ…。
記者としてのかけ出しのころ、手塚番をおおせつかりました。手塚さんには、「赤旗」日曜版に「羽と星くず」を連載していただいていました。毎週一回、東京・練馬区のお宅に、原稿をもらいにいくのが仕事でした。手塚さんは三十歳半ば、売れっ子中の売れっ子でした。
二階が手塚さんの仕事場で、階下が手塚番の”待合室”でした。いつも各社の十人ぐらいがつめていました。「○○社さん」。原稿があがると、ひもでつるしたかごがおりてきました。呼ばれた者は喜色満面、他はため息。みな毛布をかぶって徹夜覚悟でした。
「赤旗」だけが例外でした。奥さんが来訪を告げると、仕事を「赤旗」用にきりかえました。「他社からうらまれます」というと、手塚さんは答えました。「『赤旗』のようなまじめな新聞にかかせてもらえるだけでうれしい。他社のは仕事、『赤旗』のは僕の気持ち」。
事実、手塚さんは原稿料を受けとりませんでした。連載中ずっとプールし、終わったとき離島にテレビを贈ることにしました。手塚さんの発案でした。仕事の打ち上げに、編集長命で一席設けました。大衆的なトンカツ屋でした。後日、手塚さんは筆者を高級ステーキ店に呼び出しました。「礼しなきゃ」。
「やさしくてヒューマンで、まじめ」。手塚さんの人柄そのものですが、実はこれ、手塚さんが「赤旗」にいつも使った言葉でした。
「原稿があがると、ひもでつるしたかごがおりてきました」のくだりは、手塚の伝記でよく出てきますね。しかし手塚が「赤旗」(現「しんぶん赤旗」)から原稿料を受け取らなかったというのは、没後30年たっても色あせない「伝説」と言ってよいでしょう。
天野氏のインタビューを読んでいますと、いかにも「仕事」で自民党のイラストを引き受けましたというニュアンスを漂わせています。twitterを眺めていると、こういう氏の受け答えを理由に「天野先生は悪くない」みたいな擁護をする人を見かけますが、じゃあ天野氏は仕事なら日本共産党の機関紙である「しんぶん赤旗」のオファーも受けるのか? 絶対受けないでしょうねと。
つまりは、天野某って人は「やさしくてヒューマンで、まじめ」と「赤旗」に入れ込んで原稿を描いてくれた手塚に足の小指で踏みつぶされるレベルの小物ってことです。付け加えると、生前の手塚は松本善明・いわさきちひろ夫妻と家族ぐるみの交際をしており、衆院議員だった松本の選挙応援の演説を務めたこともあります。
天野とかいう人は、選挙で自民党候補の応援演説やれるくらい腹くくっていますかね? やれるものならやってみろ。おまえは絶対手塚治虫には勝てない。
現場からは以上でーす! byカズレーザー
それを記念してというのもなんですが、例の「#自民党2019」のキャンペーンに関連したネタを。世間で怒涛のツッコミを受けた安倍晋三首相の侍ルックの肖像画。あれを描いたのはゲーム「ファイナルファンタジー」のデザインを担当する天野喜孝氏ということです。
天野氏は1952年生まれでタツノコプロのアニメーター出身。自民党公式サイトにあるインタビューも一読しましたが、まあ読んでの感想は「アンタ、手塚治虫の爪の垢を煎じて飲めよ」ですわね。
手塚は生前、日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」で連載漫画を持ったことがありました。その原稿受け取りを担当した記者が、後年同紙のコラム「潮流」で思い出を語っています。とある共産党員のブログに全文が載っているので、拝借します。
●「手塚治虫死去」 1989年2月10日
漫画界の第一人者手塚治虫さんがなくなりました。心やさしく、正義感の強い人でした。手塚さんが描く作品の主人公がそうであったように。「鉄腕アトム」のアトム、「ジャングル大帝」のレオ…。
記者としてのかけ出しのころ、手塚番をおおせつかりました。手塚さんには、「赤旗」日曜版に「羽と星くず」を連載していただいていました。毎週一回、東京・練馬区のお宅に、原稿をもらいにいくのが仕事でした。手塚さんは三十歳半ば、売れっ子中の売れっ子でした。
二階が手塚さんの仕事場で、階下が手塚番の”待合室”でした。いつも各社の十人ぐらいがつめていました。「○○社さん」。原稿があがると、ひもでつるしたかごがおりてきました。呼ばれた者は喜色満面、他はため息。みな毛布をかぶって徹夜覚悟でした。
「赤旗」だけが例外でした。奥さんが来訪を告げると、仕事を「赤旗」用にきりかえました。「他社からうらまれます」というと、手塚さんは答えました。「『赤旗』のようなまじめな新聞にかかせてもらえるだけでうれしい。他社のは仕事、『赤旗』のは僕の気持ち」。
事実、手塚さんは原稿料を受けとりませんでした。連載中ずっとプールし、終わったとき離島にテレビを贈ることにしました。手塚さんの発案でした。仕事の打ち上げに、編集長命で一席設けました。大衆的なトンカツ屋でした。後日、手塚さんは筆者を高級ステーキ店に呼び出しました。「礼しなきゃ」。
「やさしくてヒューマンで、まじめ」。手塚さんの人柄そのものですが、実はこれ、手塚さんが「赤旗」にいつも使った言葉でした。
「原稿があがると、ひもでつるしたかごがおりてきました」のくだりは、手塚の伝記でよく出てきますね。しかし手塚が「赤旗」(現「しんぶん赤旗」)から原稿料を受け取らなかったというのは、没後30年たっても色あせない「伝説」と言ってよいでしょう。
天野氏のインタビューを読んでいますと、いかにも「仕事」で自民党のイラストを引き受けましたというニュアンスを漂わせています。twitterを眺めていると、こういう氏の受け答えを理由に「天野先生は悪くない」みたいな擁護をする人を見かけますが、じゃあ天野氏は仕事なら日本共産党の機関紙である「しんぶん赤旗」のオファーも受けるのか? 絶対受けないでしょうねと。
つまりは、天野某って人は「やさしくてヒューマンで、まじめ」と「赤旗」に入れ込んで原稿を描いてくれた手塚に足の小指で踏みつぶされるレベルの小物ってことです。付け加えると、生前の手塚は松本善明・いわさきちひろ夫妻と家族ぐるみの交際をしており、衆院議員だった松本の選挙応援の演説を務めたこともあります。
天野とかいう人は、選挙で自民党候補の応援演説やれるくらい腹くくっていますかね? やれるものならやってみろ。おまえは絶対手塚治虫には勝てない。
現場からは以上でーす! byカズレーザー
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